2022年08月17日 17:30
今年は終戦から77年。市内に残る戦争遺構を紹介します。
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お盆期間中、無料開放やライトアップもあって、大勢の観光客でにぎわった「兼六園」。
この天下の名園にも、戦争を伝える遺構があります。
梅林から時雨亭へと続く道に、ハート型に皮が剝ぎ取られた松の木があります。
案内板には「この松の傷は、太平洋戦争が終わった年、昭和20年(1945)の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために、松脂を採取したあとである。」とあります。
松脂を燃料にするというのは、にわかに信じられませんよね。
太平洋戦争の末期、23隻あった日本の油送船はアメリカ軍に撃沈され、昭和20年(1945)には1隻を残すのみとなっており、石油の確保は絶望的に。
そこで、石油に代わる燃料として考えられたのがアルコール、木炭、松脂でした。
年間40万キロリットルの松根油生産を目的に、政府は同年3月に「松根油等拡充増産計画」を決定。この作業には、全国で延べ4,400万人が動員されたそうです。
兼六園の松の木は200本が対象となりました。
作業はまず目の高さのところでハート型に皮を剥ぎ取り、左右から斜め45度の角度でノコギリで切れ目をつけ、切れ目の合流地点に竹筒を下げます。そこに松脂がしたたり落ち、ほぼ一昼夜で一合半の竹筒がいっぱいになったそうです。
気の遠くなるような作業ですが、当時はそれほど物資が不足していたということですね。
この時点で、勝敗は見えていたような気がしてなりません
ちなみに、『日本石油百年史』によると、実際に燃料に使用された形跡は無かったそうです。
見どころ満載の兼六園では地味な存在ですが、こうした歴史の証言者にも目を向けみては。
<参考>下郷稔『兼六園の今昔』(1999、中日新聞社)
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