2022年08月15日 16:30
今年は終戦から77年。市内に残る戦争遺構を紹介します。
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お盆の墓参でごったがえす野田山墓地に行ってきました。
戊辰戦争から太平洋戦争まで、石川県の戦没者を祀る「石川県戦没者墓苑」。
こちらの一画に「石川県満蒙開拓者慰霊之碑」があります。
解説板には「この碑は、中国東北地区(旧満州地区)で亡くなった石川県出身の満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、満州建設勤労奉仕隊の方々及びその家族等約3,000名を慰霊するため、石川県満蒙開拓者慰霊奉賛会により建立されました。昭和45年(1970)7月建立」とあります。
満蒙移民(当時は満蒙開拓)とは昭和6年(1931)9月の満州事変以降、国策として行われた農業移民を指します。
石川県でも満州移民石川村建設実行委員会が組織され、積極的に移民政策に取り組みました。
その政策推進の中核となる拓務大臣に就任していたのが、石川県選出の永井柳太郎(1881~1944)です。
永井は第2次移民の壮行会に際し、「東洋平和の根幹として満州における秩序維持ならびに富源開発こそ絶対必要」と強調したうえで、次のように激励しました。
オックスフォードに学び、大隈重信に傾倒した永井は、「演説の名手」だったとか。
貧困にあえぐ県下の農民は、この激励を聞いて夢と希望を膨らませことは想像に難くありません。実際に「国策遂行、王道楽土建設のため家族、親戚の猛反対を押し切って渡満した」という開拓団の言葉も残っています。
しかしながら、「極寒・疾病・襲撃」の恐怖に耐えながらの現地の暮らしは非常に厳しく、本当の意味で心の休まるときはありませんでした。
何より、本当の地獄は終戦間際の昭和20年(1945)8月9日にやってきます。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、国境全域から攻め込んできたのです。
その頃の開拓団には、成年男子はほとんど残っておらず、残された人々は逃げることしかできません。
必死の逃避行は凄惨を極め、目を背けたくなるような証言がたくさん残っています。
国策に翻弄された悲劇として、今も語り継がれる「満蒙開拓団」。
終戦後も続いた「終わらざる夏」を忘れてはいけませんね。
<参考>橋本哲哉・林宥一『石川県の百年』(1987、山川出版社)
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